鎌倉歴史文化交流館にて「平泉から鎌倉へ~兵どもが夢の先~」見学。
平安時代中期から後期にかけての約100年にわたり、平泉藤原氏(奥州藤原氏)は東北地方の平泉を拠点に繁栄しました。初代藤原清衡は、前九年合戦で父を、そして後三年合戦で妻子を失います。この大きな2つの戦乱による体験が、平泉の地に築き上げられた「みちのくの浄土」へと繋がります。
相次ぐ合戦で親族らを失った清衡は、戦没者を供養するために中尊寺を建立します。そして、清衡の跡を継いだ2代基衡は毛越寺を建立、さらに基衡の跡を継いだ3代秀衡が宇治の平等院鳳凰堂をモデルとした無量光院を建立します。
清衡が築いた仏教を中心とした国づくりが3代にわたり発展し、平泉は都市として繁栄しました。しかし、初代清衡から4代泰衡にわたり栄華をきわめた平泉藤原氏は、文治5年(1189)に源頼朝の奥州攻めにより滅亡します。
平泉藤原氏は滅亡しますが、平泉の文化は鎌倉へと継承されました。頼朝は、戦没者を供養するために永福寺を建立します。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、平泉藤原氏が築き上げた浄土世界に感激した頼朝が、平泉の寺院を模して永福寺を建立したことが記されています。このように、戦乱が続いた後に平和を求める意識は、平泉藤原氏から頼朝へと引き継がれました。